電話が鳴るのは、いつだって、突然だ。11時19分だとか、3時53分だとか、全くもって切りの良くない時間に、脈絡もなく、こちらの都合などお構いなしに、突然けたたましく鳴り響く、当たり前のことだけど、僕はそれをとても暴力的に感じる。電話は苦手だ。大抵の場合、僕は着信を告げるスマホの画面をただただボーッと眺めて、留守番電話に切り替わるのを待つ。そう、いつもなら。
そんな僕なのに、つい出てしまう電話、というものがある。あり得ない時間に、あり得ない相手からかかって来る電話だ。そんな電話は、出る前から不穏な空気を放っている。そしてその予感は、大抵の場合、当たっている。
あの日もそうだった。3月28日、土曜日の午前11時、快晴。「理想の週末」を描くのには持ってこいな日だろう。そこに、福岡に住む妹からの突然の電話。
「……もしもし?」無言。「もしもし?」「……兄ちゃん…」妹の、消え入るような声。
ああ。
電話に出たその瞬間に、無言の張り詰めた緊張感から、全てを理解してしまう。この感じ、何度目だっけな。生きている間に、あと何回、こんな連絡を受けなければならないのだろう。最初はいつだったっけ。そうか、20年前、親父が半身不随になった交通事故の時だ。
ところが、父さんからの電話は、一度無視しても二度、三度としつこく鳴り続く。……僕はそのうち、何だかせかされているような気がしてきて、いたたまれなくなって、ついに電源を切ってしまった。
こんな僕でも社長になれた
(中略)
その日の深夜。枕元で鳴る携帯の音に、目が覚めた。初めのうち、僕はそれを目覚ましのアラームの音だとばかり思っていた。けれども、布団の中で少しずつ頭が働くようになるにつれて、毎朝聞いている音とは何か少し違うな、ということに気が付いた。無意識に、壁に掛けてあった時計で時間を確認すると、深夜一時を少しまわったばかり。まだ配達までには随分と早い。……着信だった。
「……あ、……はい」
深夜に、知らない番号からの着信。不気味さを感じながら、慌てて電話に出ると、受話器の向こうから、懐かしい声が聞こえてきた。
「……一真? あんた何しよん。おばちゃん何回も電話かけたんよ。……分かる? 由美子おばちゃんよ」
それは母さんの実姉の、由美子おばちゃんからの電話だった。瞬間的に、僕は、何となく嫌な予感がした。
「あぁ、どうしたん……こんな時間に」
「……いいね、一真。今すぐ、宗像に帰ってきなさい。タクシーでも何でも使ってよかけん、とにかく急いで、帰ってきなさい。落ち着いて聞きなさいよ、あんたのお父さんがね、ついさっき、トラックで事故起こしたんよ。……凄く大きな事故やったとよ。トラックもぺしゃんこになってしまってね……」
「え、そんな……。父さん、大丈夫なんやろ……?」
「今、やっとトラックから助け出されて、病院に運ばれたとこなんよ……。ただ、どうなるか分からんから……とにかく、一刻も早く病院に来なさい。お母さんも裕子も、もう訳分からんようになってしまっとってね……だけん、こんなときはね、あんたがしっかりせんといけんのよ。分かったね、一真……」
由美子おばちゃんからの電話は、そう言ってぷつっと切れた。
(……父さんが、事故に)
薄暗い部屋の中で、時計の秒針の、規則的な音だけが響いていた。電話を切った後も、布団の上に座り込んだまま、少しの間、動けなかった。
2020年3月28日、弟の誕生日は、そのまま彼の命日となった。正直、電話に出た後からの行動はよく覚えていない。コロナによるリモートワークや休校はもう始まっており外出自粛ムードの中だったが、生後1ヶ月も経たない次女もいる中、取る物も取り敢えず、飛行機に飛び乗り地元に向かった。
検死などの手続きが色々とあり、結局対面出来たのは深夜の地元の警察署だった。スマホが鳴ったあの時から他人である可能性は疑ってはいなかったが、やはり現実と直面すると視界の隅からブラックアウトして気が遠のいた。涙は出なかったが、お袋の悲痛な叫び声がとにかく辛かった。子供を失う親の気持ちを、どう理解したら良いのだろう?
かつての僕と同様に、弟は10代から引きこもりお袋と二人で暮らしていた。8歳差ということもあり、正直あまり一緒に遊んだ記憶は無いが、早々に家を出た僕は、遠くから、引きこもり続けている弟のことは常に頭の片隅で気にはかけていた。だが、僕にいったい何が出来たのか?
身近な人の死をどう受け入れていくべきなのか。悲しみ、そして救えなかった自分自身への、そして勝手に行ってしまった弟への怒り。30代前半、まだまだ若い。僕も彼も、いくらだってやれることはあったはずだ。さまざまな感情に襲われる中で、最終的に行き着く先は、いつだって、諦めだ。
誰しもが自らの意思で生まれてくる訳ではない。だとしたら、せめて。せめて、自分の人生の最後は、自分の意思で、自分のタイミングで、終わらせても良いのかもしれない。残された僕たちに出来ることは、その人生最後の彼の決断を、悲しみ、諦め、受け入れ、尊重してあげるくらいしかないのだろう。
引きこもってから十数年。辛かっただろう。苦しかっただろう。出口の無い、真っ暗闇のトンネルを歩いている気持ちだっただろう。気持ちはとてもわかる。僕もまた、同じだったからだ。それでも歩いていればいつかは、なんて、無責任なことを僕は言えない。僕だって未だ、暗闇の中だ。だが、せめて、せめて今は天国で、あらゆる苦しみから解放されていて欲しいと思う。思いたい。
人は、生きることの意味なんてものを考える。だが、「生きる意味」なんてものは、生きている間には自分の中には決して見つからず、この世を去った後に残された人たちがそれぞれに見出すものであり、あえて言うのなら、生きる意味など存在しないとすら思う。残された僕らは、それぞれの人生の中で、その辛い出来事を、次に繋げることしか出来ない。
生の輪郭とは内側から描くものでは無く、その外側、死を描くことで、ぼんやりと浮かび上がるものなんじゃないか。
お袋はいまだに家の中に、息子の存在を感じるという。火葬場であの日、彼が物質としては滅したことは残された家族全員が認識しているはずだ。だが、その彼女が感じる見えない息子の存在を、一体誰が否定できるのか。目に見えないものを信じるということ。そして、コロナのように、目に見えないものを恐れるということ。そこに何か、違いはあるのか。
いまだ収束の見えないコロナと共に生きていくということは、「”目に見えないもの”と、付き合いながら生きていく」ということなのでは無いか。それは例えば、霊や魂、神や仏といった存在とも近いのかもしれない。目に見えるものばかりを信じてきた世紀が終わる。
コロナに始まりコロナに終わる、そんな1年だったけど、総括なんてどうやら僕には出来そうにない。2021年1月1日元旦。明日からまた新たな1年が始まるが、所詮どこかの誰かが決めた区切りでしかない。僕らの人生は、死ぬまで地続きなのだ。明日もまた、何も変わらない1日が始まる。
僕はお前の分までしぶとく生き抜くよ、真啓。
今までありがとう。そしてお疲れ様。ゆっくり寝なね。
2020/12/31