骨を呑む

自分の生きてる意味なんて、死んだ後にしかわからない。生きてれば辛い事なんてたくさんあるけれど、それを意味あるものに出来るか出来ないかは、生きてる間に自分がどう動くか。同様に、身近な人の死も、結局のところ死んだ後にしかわからない。いなくなって初めてありがたみを知る。悲しいけど。

ゴッホの評価が死後に上がった様に、生きてる間の価値なんて、結局のところ意味が無い。そういう意味で死ぬタイミングみたいなものはあるのだなあとは思う。坂本龍馬が、尾崎豊が、ジェームズディーンが、リバーフェニックスが早死にした様に。有名無名に関わらず、それぞれにそれぞれの死の意味がある。

いやまあそのなんだ偉そうな事言ってみたものの。結局のところ、自分が生きてる意味なんて、死んだ後に残された人がそれぞれにつけるって事だ。自分の死を、ある人は人生の転機にするだろうし、ある人は素通りするだろうし、ある人は文書に残すだろう。そういう意味では、自分の生に、意味は無い。

以前近い人の火葬で骨を飲み込んだことがある。遺骨を飲み込む事に意味は無い。残された人間の、自分へのただの慰みの行為でしか無い。残された人間それぞれが、それぞれに「死」に意味をつける。それこそが死んだ人の、生きてた間の意味だろう。言わば骨を飲む行為。そういう意味で、人に生きてる意味なんて無い。

自分一人で見出す意味なんてものには大した価値がない。だから自分の生きていることに無理に意味を見出そうとしなくていい。むしろ無駄だ。何か動いていく中で関係性が生まれた周りの人間たちは勝手に意味を見出していく。それが分かりやすく訪れるのは死のタイミング。

つまり僕らは実は、自分の意識を超えたところでしか意味を持つことができない。そんなもんだと割り切った上で、生きる意味と付き合っていったほうがいい。

生の輪郭は、周りがどんなことを期待するのか、死んだあと何が残るのか、といったことによってのみ形づくられていくもの。鏡で自分の顔を見るように輪郭を把握したり、自分の意図だけで変形させていくようなことは、できない。