反原発ということ

放射能を恐れ家族で遠くに避難するということ。社会との接続を断ち自然と共に暮らすということ。被災地の食材を食べないということ。まだそこに住む被災者の存在を無視し放射能の恐怖を煽ること。個人レベルでの逃避行動は否定出来ないが、それは結局社会との決別を意味するのではないか。

遠隔地に越すことで放射能から家族を守ること。現代文明を否定し自然と共に暮らすこと。その選択が正しいのか正しくないのか僕にはわからないが、自分を社会から切り離して生きて行けるのか。根本から見直すべき問題があるんじゃないか。震災後あれだけ皆が言ってた「絆」を断ち切る行為なんじゃ無いか。

自分を社会から切り離し、遠くに逃げた先から「被災地の食材は食べるな」「福島は隔離しろ」「奇形児が産まれる」なんて煽る行為は、この危機的な状況にある日本の中で、あまりにも自分のことしか考えていない様にも見える。もっと根本的に、日本や社会を変える視点で生き方を考えるべきなんじゃないか。

僕はあくまで「反原発」です。ただ、実際起きてしまった問題に対して、そして未だに住んでいる方々に対して、どう向き合っていくか、はこれから皆が考えなきゃいけないことだと思う。少なくとも自分だけを社会から切り離して、被災地を見捨てることでは無いと思うんだな。それが本当の「絆」でしょ。

自分も巻き添えを食わない様に、いじめられてる子を見捨てる行為にも似ている気がするよ。見ない振りをして「いじめ撤廃!」なんて言う前に、目の前のいじめられた子に手を差し伸べるべきだよね。いじめっ子も放射能も、理不尽で圧倒的な暴力という点では同じ。撤廃はすべきだが、見捨てることとは違う。

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個人の可能性を解放するプラットフォームと居場所づくり。CAMPFIRE代表、BASE共同創業、ペパボ創業、NOW代表、リバ邸創設、ブクログや渋谷オンザコーナー、しぶや花魁をつくったり。現代アート蒐集も。長野の森に住んでいます。