現代における悪人正機考

僕の好きな親鸞の思想に「悪人正機」というものがある。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」という一文は有名だから知ってる人も多いかも。訳すと「善人だって救われるんだから、悪人ならいうにおよばない」と。ん?逆じゃないの?と思う人もいるかもしれない。僕も最初はそう思った。

自分を善人だと思い込んで、正しい行いをしているつもりになっている人ですら救われるのだから、自分を煩悩まみれのどうしようもない悪人であることを自覚して、仏に頼る人ならなおさらでしょ、という意味。だから、これはこれで正しい。悪人ほど救われる。超やばい。かっこいい笑。

Livertyに集まってきている「ダメな子」も、ここで言う「悪人」に近いものがあるかもしれない。どうしようもない人間であることを自覚して、駆け込んできた子たち。そんな「ダメな子」たちが何かを為すからそこにストーリーが生まれ、共感を呼ぶ。器用に生きていける子には僕は興味が無い。

別に僕はそんな子たちを救いたいとも救えるとも思ってないし、僕を信じろと言ってる訳でもない。そのダメな子が作るストーリーに興味があるだけ。後ろにも前にも進めなくなった子が、何かをきっかけに前に進み始める瞬間がとても面白い。かつて引きこもりで対人恐怖症だった自分を見ている様で。

いじめや引きこもりやニートや人見知りや童貞や複雑な家庭環境など、そんな様々なコンプレックスに起因する、様々な問題を全て自分で受け入れて、飲み込んで、さらけ出せる子たち。僕はそんな子たちを、あえて、愛を持って「ダメな子」と呼ぶ。救えるとも救いたいとも思わないがきっかけは与えたい

佐々木俊尚さんは「レイヤー化する世界」でこう言っている。これから訪れるレイヤーが何層も重なり合う世界では、今までは弱者とされた人たちが、そのいっぷう変わったレイヤーで繋がりあうことでむしろ強者になっていく、その一方逆に強者だと疑わず安心しきってた人は孤立してしまうだろう、と。

モノやサービスや情報に溢れかえったこの時代では、背景にストーリーが無い物は選ばれない。不器用な「ダメな子」が何かを為すから、そこにストーリーが生まれ、共感されシェアされる。不器用であることが武器になる時代。起用な子だって生きていけるんだから、不器用ならいうにおよばない笑。

以上「現代における悪人正機考」でした。おわり!解釈に間違いがあったとしても許して笑。大好きだけど、親鸞はライバルだと思ってる笑