渋家

昨日ラジオに出てくれた齋藤桂太さんが率いる渋家。渋家はシェアハウスの枠を飛び越えて、今後のアートの文脈の中で一端を担う存在になっていくのだろうな。まあ、もはやアートも軽やかに飛び越えてる感はあるけど笑。

「ありとあらゆる物事の境界線が曖昧になっていく」と僕はよく言ってるけど、例えば渋家は仕事も遊びも、そして生活ですら境界があいまいになっている。遊び場であり仕事場であり、クラブであり舞台でもあり、そして拡張された家族の居間でもある。面白い。

渋家には30人ほど(!)住んでいるらしいが、彼らは居間で飯を食いながら探偵ナイトスクープを見てゲラゲラ笑ってたりするらしい。これはもはや家族以外の何者でも無いだろう。実家よりくつろげる居場所がそこにある。血の繋がりを越えて擬似家族、拡張家族を作る動きは渋家でもリバ邸でも感じる。

ドラマにもなったりするオシャレに間仕切りされた商業的シェアハウスには何の魅力も感じない。そこには家族の匂いがしないからだ。擬似家族を作る流れはきっと、先が見えない中で孤独死したり自死しないための本能的な動きなんだと思う。アジール、駆け込み寺としてのシェアハウス。

「家は一人になるための場所、プライベートな空間。そう思い込んでるんですみんな。一人になりたければ外に出ればカフェでも図書館でもどこでも一人になれる。だったら家にいる時くらい、誰かと触れ合おう」よるヒルズをやっていた高木新平くんの言葉。この言葉にハッとさせられた。

共同生活の中で個人生活領域の境界線を跨いで、お互いに侵害し合う。そこで生まれるのは許し合いでは無いか。そもそも人は生きてるだけで迷惑をかける。だったら迷惑をかけない様に努力するのでは無く、他人の迷惑を許せばそれでいい。例え擬似でも、家族ってそういうものだよね笑