ジョブズと犯罪者

秋葉原殺傷事件・加藤智大死刑囚の「解」を読む。家庭環境も特殊だったみたいだが、仕事や友人といった社会との接続を失い徐々に追い込まれていくなんてことは今の時代誰の身にも起きうること。社会との断絶を極端なまでに恐れた彼と、自分の違いは一体何なのだろうと本当に考えさせられる。

痛みを与えて改心させる考え方は自分に限らず巷にありふれている、と加藤被告は言う。対向車のハイビームにハイビームで対抗するドライバー、往復ビンタをする教師、子の食事を抜く親、戦争、etc…。いずれも「正しいのは自分で、間違った相手の考え方を痛みで改めさせようとする行為だ」と。

加藤被告の考え方は理解出来ないし自分とは全く違う人種だ、なんて思う人もいるだろうが、僕はそうは思わない。痛みで相手を改心させる、なんて行為は被告が言う様に巷に蔓延しているし、感情の生き物である人間がそういった行動に出るのは理解出来る。理解出来るからこそ、違いは何だろうと悩む。

同じ人間なのだから頑張れば、例えばジョブズみたいになれる、なんて信じて憧れたりする割りに、同様に自分がいつでも犯罪者にもなり得ることを、誰も考えたりしない。ジョブズと自分と犯罪者の違いは何なのだろう?才能?努力?環境?そういったものは誤差の範囲でしか無いんじゃないか。

著書の中で彼はしきりに「社会との断絶」を悲痛なまでに書き記している。例えばだけど、彼に「おかえり」と言ってくれる人が、場所があれば、あんな悲惨な事件を起こさずに済んだんじゃないか。働く意欲もあった、友人を喜ばせたいという気持ちもあった。なのに。

僕も含め、誰しもが同じ状況になり得る時代に僕らは生きている。それだけに、では自分と彼の違いは何なんだと考える。何も違わないんだよ。このケースだけが極端な例外などでは無い、誰しもが同じ崖っぷちを歩いていて、一歩踏み外しただけであちら側に行ってしまうのが今の社会なんだ。