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プラットフォームとしての態度

CAMPFIREの災害時の対応スピードが早いという有難いお言葉をたくさんいただいてますが、「こういう時に動かなくてなにがプラットフォームだ」という思いがCAMPFIREスタッフみんなにあります。現地の方々はもちろん、すぐに支援に動いてる皆さんのために何ができるのか。常に問い続けたいと思う。

支援する理由はそれぞれで良いと本当に思います。「やらぬ善よりやる偽善」なんて言葉もありますが、僕はあまり好きな言葉ではありません。善だとも偽善だとも分けず、ただ自分が応援したいからした、それで良いと思います。

あえて言いますが、これから起業したい子、既に起業してる子問わずプラットフォームをやってるのであれば、こういう災害が起きた時に無関心を決め込むのは、本当に格好悪いと思います。別に大小では無い、自分にできることをただやる、それで良い。それすらも表明出来ない起業なんか、やるべきじゃない。

エコシステムだ、生態系だ、シリコンバレーだ、とか言って、日本の緊急事態になにも動かない、動けないのは、それこそ「底が抜けた社会」でしかないよね。豊かさは実現したが希望の無いこの日本で、起業を通じて何もやれないのだとしたら、それは嘘でしょ。

あなたの起業する理由は、“伸びてる市場だから”ですか、それとも”自分の欲求を満たすため”ですか。もちろんそれは否定しない。賛同しないが、理解は出来ます。ただ、そんな思想無き起業は、僕は応援は出来ない。それを応援すべきは僕ではないが、別のコミュニティがあると思うので、そこに行けば良い。

皆さんもぜひご支援をお願いいたします。
【2018年9月6日発生 北海道地震】緊急災害支援金

螺旋状に、上へ上へ

オンラインカウンセリングcotree櫻本さんのある日のツイート。

僕も同感で、意識的に「変える」「破壊する」という言葉は使わないようにしています。かわりに「アップデートする」をよく使います。オールユアーズの木村さんは「溶かす」と言うそう。こちらも良いね。

「変える・破壊する」という言葉を使う時、必ず反対側に、「変えられる側・破壊される側」が存在するのですよね。そちらで生きている人や生きて行かざるを得ない人たちを想像すること。それを忘れてしまった時、優しくない世界になってしまう。

僕らの住む世界はレイヤーのように層になっているし、歴史は円を描きながらも何度も何度も近いところを通る。だったら既存の世界や過去を否定したり破壊したり回帰するのではなく、新しいレイヤーをつくるように、螺旋状に、上へ上へとアップデートを重ねていきたい。「やさしい革命」ってそういうこと。

パスを回す

「仲間が集まりません、どうしたら良いですか」なんて相談されたら「まずは誰かの仲間になって、何か手伝ってみたら」と答えます、いきなり自分のやりたいことだけを主張して仲間が集まるとなぜ思えるのかが不思議だけど、実際そう言った相談はとても多い。

パスを回すから自分にもまた誰かからパスが回ってくるわけで、ボールは誰にも渡さない、とにかく自分がゴールを決めたい、なんて人があまりにも多いように思う。

“自分らしさ”みたいなものを内側から描こう描こうとするから、自意識ばかりが肥大化して破裂しそうになる。逆に外側を埋めることで、自分の輪郭のようなものをぼんやりと浮かび上がらせるくらいが丁度良い気がします。

もはや仕事も遊びもよく区別がつきませんが、あえて仕事とは何かと考えると、それは他者や社会にパスを回すことなんだろうな、と思っています。

pass da micってことです(違う)

弱みという強み

自分の弱点や短所を正しく認識出来ていることはむしろ強みであると思うので、面接では必ずそういったネガな点を根掘り葉掘り聞くことにしています。ここで誤魔化さず吐露できる人は意外に少ない。強みや優位性は正直あまりみんな大差ないのでさらっと流します。

わかりやすい強みや優位性と違って、弱みや短所といった人としてガタガタな部分こそが、むしろチームにガチッとハマると替えのきかない武器になることも多い。これは弱点に限らず劣等感や過去の辛い体験なども同じで、その人固有の物語は誰にも変えられない強みになる。だから面接では根掘り葉掘り聞く。

人生や仕事において小さくても大事にしてること、自分の認識してる自分の弱み・劣等感、どんな時でも他者に対して優しくあれるかどうか、これだけは面接で必ず聞いてる気がする。優しい人とだけ働きたい。優しくして欲しい…。

あまり無いけど社内で優しくない言動をみかけたら「それ優しくない!もっと優しくして!」と言う、でも怖くて言い出せないことも多い。いじめられっ子根性が染み付いてるので経営スタイルも自ずとそうなる、いじめられっ子だけで会社やってたい。

ガタついた歯車

社会不適合者しか入れない組織作る。

学校にしろ会社にしろこぼれ落ちちゃう子は今のシステムとの相性が悪いだけで裏を返せばどんな人間とも代替不可能なヒーローになる可能性を秘めていると思います。今のシステムでは会社にしろなんにしろ面倒臭い人間を入れた担当者が叱責を食らうので無難な良い子だけが組み込まれてく仕組みになってる。

歯車という例えは適切では無いかも知れないけど、今のシステムに適合する歯車は誰とでも代替可能で、いつでも交換されてしまう。システムに合わないガタついた歯車だからこそ、そのガタつきが生きる場所が見つかれば、それこそそのガタつき故に、どんな誰とも交換しづらいものとなる。と思う。

与えられた居場所で生きて、今度は居場所を与える側になっていけばいいのだと。かつての自分の様な人間に対して。

強さでしか生きられない社会から振り落とされてもなおそんな人間に強さを求めるというのは酷な話で、弱い人間が弱さ故につながり生きていく社会がぼくは美しいなと思うのだけど。淘汰を生まない仕組みこそが、人間の生存戦略だったはずだしね。

淘汰を容認するということは、自分もまた淘汰される側にいつだってなり得るということです。そんな社会は底抜けだろう。

反ポスティングチラシ運動

この時代に大量のポスティングチラシがむかつくしエコじゃないからポスティングしてないとこからのみ出前をとる運動やりたい。

なんて発言をすると何故か「アナログな人間を切り捨てるのか」なんて反応する方々が出てくるなあ。全然違うよね。メールが普及し始めた時にも同様の反応があったんだろうな。

無思考に大量に印刷されポストに突っ込まれそのまま読まれもせずゴミ箱行きになる大量のチラシを疑問に思うことが、アナログ人間を斬り捨てることにどう繋がるのかわからない。例えばお年寄りにそんなにピザや風俗のチラシが毎日も必要なのかなあ。例え有用なチラシがあったとしても、それすらも商業的に大量ポストされるチラシに紛れて捨てられてしまう。

僕の中では、印刷所で印刷された大量のチラシがそのままゴミ処理場に持っていかれて廃棄されてるくらいのイメージなんだけどな。その中にも有用なものだってあります、必要としている人もいます、と言われてもな。じゃあそのままで、って話で終わらせたところで何の解決にもならない。

社会的な問題をテクノロジーで解決しようとする時に、その恩恵を受けられない人たちを斬り捨てるつもりなのか、なんて外から文句だけ言うのは、結局その問題に対して何もしていないことと同じだと思う(いや別に今回の話はそこまでの話じゃないけどね!)

ただ、その恩恵を受けられない人を少しでも減らす意味で、例えばお年寄り向けタブレット教室みたいな活動を僕たちはやろうとしている訳ですしね。もちろん既にやられてる方々もたくさんいます。先ほどのチラシの話とこの活動に矛盾は何も無いと思っているよ。

ピザでもとるか…

甘えを許す

最近ベビーカー議論があったけど、公共の場でベビーカーは迷惑だ、ベビーカーは親が楽したいだけの甘えだ、なんて考え方が、結局自分自身の属する社会をギスギスした息の詰まるものにしてしまってると思うよ、僕は。僕たちだって赤ん坊の時に他人に迷惑をかけたのだから、今その迷惑を受け入れたらいいんじゃないかなあ。

自分が甘えられなかったから、あいつも甘えるべきでは無い、あいつだけズルい、と考えるのでは無く、自分は辛い思いをしたからこそお前の気持ちがわかるよ、と考え方を転換出来れば良いのだけどね。まあそれが中々難しいのもわかるのだけど。僕らは多かれ少なかれ、他者に甘えを許されながら、生きている。

世間と社会

よく美談とされる「財布を飲食店に忘れて二時間後に戻ったけどそのままそこにあった、日本最高!」と言う話と、「妊婦が電車に乗ってて誰も席を譲らない、日本おわた」と言う話は実は同じで。日本人は自分の関わる「世間」の目は気にするが、自分と関係無い「社会」には無関心なのである。という話。

んで、これ実はよく日本人の言う「空気」いわゆるKY、同調圧力の話に繋がる。自分と関係無い「社会」には無関心だが、自分の関わる「世間」の目は気にする日本人。自殺も、イジメも、マイノリティが生きづらい問題も、全部ここに繋がってくる。

これは日本における宗教観も繋がってくる。キリスト教の絶対的な唯一神の前では社会も世間も相対化されるが、(建前上)無宗教の日本では世間の目が絶対化されてしまう。それがいわゆる「空気」となり、同調圧力となってしまう。

戦う相手

自分の信じる行動について、とやかく言われたり冷笑されることを、気にしたり、恐れてはならない。過剰に反応したり、弁明に追われたり、仕返しをすることは本質的では無い。

戦う相手を間違えてはいけない。

良い社会をつくるには、自分の信じることを、自分のやれることを、一人一人が、ただやること、それだけだと思います。他人に優しくありながら、ね。

仕組みのハック

国や社会や行政や学校といったレイヤーの網目の隙間から落ちてしまった子たちの居場所を作るのが僕らのやってることなんだよね。別にそれは慈善でも何でもない。ただ、国に頼れない中で、僕らは僕らで勝手にやるよ、と。

別に既存の仕組みを否定するつもりもひっくり返すつもりも無い。ただ、その既存の仕組みをハックする形でアップデートする。働き方を、居場所を、資本主義を、行政を、政治を、宗教を、ハックする。それが僕らのやるべきことなんだよね。

反原発ということ

放射能を恐れ家族で遠くに避難するということ。社会との接続を断ち自然と共に暮らすということ。被災地の食材を食べないということ。まだそこに住む被災者の存在を無視し放射能の恐怖を煽ること。個人レベルでの逃避行動は否定出来ないが、それは結局社会との決別を意味するのではないか。

遠隔地に越すことで放射能から家族を守ること。現代文明を否定し自然と共に暮らすこと。その選択が正しいのか正しくないのか僕にはわからないが、自分を社会から切り離して生きて行けるのか。根本から見直すべき問題があるんじゃないか。震災後あれだけ皆が言ってた「絆」を断ち切る行為なんじゃ無いか。

自分を社会から切り離し、遠くに逃げた先から「被災地の食材は食べるな」「福島は隔離しろ」「奇形児が産まれる」なんて煽る行為は、この危機的な状況にある日本の中で、あまりにも自分のことしか考えていない様にも見える。もっと根本的に、日本や社会を変える視点で生き方を考えるべきなんじゃないか。

僕はあくまで「反原発」です。ただ、実際起きてしまった問題に対して、そして未だに住んでいる方々に対して、どう向き合っていくか、はこれから皆が考えなきゃいけないことだと思う。少なくとも自分だけを社会から切り離して、被災地を見捨てることでは無いと思うんだな。それが本当の「絆」でしょ。

自分も巻き添えを食わない様に、いじめられてる子を見捨てる行為にも似ている気がするよ。見ない振りをして「いじめ撤廃!」なんて言う前に、目の前のいじめられた子に手を差し伸べるべきだよね。いじめっ子も放射能も、理不尽で圧倒的な暴力という点では同じ。撤廃はすべきだが、見捨てることとは違う。

放射能を恐れ家族で遠くに避難するということ。社会との接続を断ち自然と共に暮らすということ。被災地の食材を食べないということ。まだそこに住む被災者の存在を無視し放射能の恐怖を煽ること。個人レベルでの逃避行動は否定出来ないが、それは結局社会との決別を意味するのではないか。

遠隔地に越すことで放射能から家族を守ること。現代文明を否定し自然と共に暮らすこと。その選択が正しいのか正しくないのか僕にはわからないが、自分を社会から切り離して生きて行けるのか。根本から見直すべき問題があるんじゃないか。震災後あれだけ皆が言ってた「絆」を断ち切る行為なんじゃ無いか。

自分を社会から切り離し、遠くに逃げた先から「被災地の食材は食べるな」「福島は隔離しろ」「奇形児が産まれる」なんて煽る行為は、この危機的な状況にある日本の中で、あまりにも自分のことしか考えていない様にも見える。もっと根本的に、日本や社会を変える視点で生き方を考えるべきなんじゃないか。

僕はあくまで「反原発」です。ただ、実際起きてしまった問題に対して、そして未だに住んでいる方々に対して、どう向き合っていくか、はこれから皆が考えなきゃいけないことだと思う。少なくとも自分だけを社会から切り離して、被災地を見捨てることでは無いと思うんだな。それが本当の「絆」でしょ。

自分も巻き添えを食わない様に、いじめられてる子を見捨てる行為にも似ている気がするよ。見ない振りをして「いじめ撤廃!」なんて言う前に、目の前のいじめられた子に手を差し伸べるべきだよね。いじめっ子も放射能も、理不尽で圧倒的な暴力という点では同じ。撤廃はすべきだが、見捨てることとは違う。

迷惑

周囲に迷惑をかけるな、と僕らは教わってきた。でも違うんだよ。他人の迷惑を許容出来る様になればいいんだよ。そもそも生きてるだけで人様に迷惑かけてるんだからね。

大きなもの

「人生そんなもんだよ」と諦めにも似た空気の中で生きてくのまじ辛い。学校にも会社にも国にも家庭にも至る所にそういった空気が蔓延している。自分の人生、そんなもん、で片付けられちゃ堪んない。

「大きなもの」に依存しない道を選ぶならゲリラ的に戦っていくしかない。ありとあらゆる常識を疑って、思考を他人に委ねず、「社会ってそういうもんだ」という思い込みをぶち壊す。学校も会社も国もそんな空気で固められてしまってる気がするよ。

ヌケ

悩み相談に乗るって事は相手の人生を背負う事ですよ、そんなに気軽にやるべきでは無い、専門家に任せなさい。と言われる。そんな事言ってたら結局何も出来ない。でもわからなくも無いので、話を聞くだけ、話を聞いてアドバイスするだけって言えばいいかな。それだけでも救われる人ってたくさんいるよね。

解決されるべき問題に、カジュアルに入ってくのがいけないのか。でも周りを見渡してもそもそも解決策すら見当たらない場合に、その行動は正しいのか正しくないのか。自分を信じるしか無いんだけど、自分でも良くわからなくなってるのかも知れないなあ。むー。

例えば「学生でもお小遣い程度で使えるカジュアルなレンタルサーバーがあればいいなあ」でロリポップを作った様に。「クリエイターが資金とファンを集められる場」でキャンプファイヤーが出来た様に。「学生が気軽に相談出来る場」があってもいい。その違いは何だろう。僕にはわからなすぎる。

dankogai さんが「家入が最近出すものは良い意味でのヌケ(脱力感)が無くなった」と言ってたけど、僕的には何も変わってないんだよね。昔から。

誰かの相談に乗る事で存在価値を見いだせるのだとしたら、回答者もまた救われてると言えないかな。自分は他人の集まりにより定義され、その他人の集まりにまた自分も影響を与え、自分中心の他人の集まりも存在する。他人の集まり=社会か。難しく考え過ぎ?笑

こんな事言ってるからヌケが無いとか言われるのか。笑

諦める前の生き方相談室
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