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クラウドファンディングからフレンドファンディングへ

ポルカという新サービスのティザーが出ました。

https://polca.jp

クラウドファンディングって大義名分が無いとダメなんじゃないか?とか、小さな金額でも使っていいのかな?とか、炎上が怖い!とか、達成しなかったら恥ずかしい、とか、まだまだハードルが高かったと思います。もっと身近に、もっと気軽に使ってもらえる仕組みにすべきだと考えました。

アメリカで生まれたクラウドファンディングという仕組み。お金集めの民主化を目指す僕らとしては、支援を募る新しい仕組みとしてとても素晴らしいものだと信じています。でも、もっと、日本に最適化した仕組みに出来るんじゃないか。僕らは常に考えています。

日本には寄付文化が無いから〜なんてことを言われることも多々ありますが、実はそんなことなくて、頼母子とか模合、無尽や講といった名前で昔から支え合いの仕組みはあったんですよね。それをテクノロジーでいまどう実現するか。アップデートするか。これが僕らの役割だと思っています。

インターネット空間は国境を越えて広がってくけど、クラスタ化が進んで個人を中心とした世界はどんどん小さくなっていく。日本などの成熟した国の抱える課題を考えるとこれからは個人を中心とした小さな経済圏を作ってくことが急務だと感じています。そのための一つになれたらと思います。

お金の流れは変わりつつあるし、もっと変わってく。とりあえず貯金する、物が欲しいからお金を払う、だけではなく、共感するからお金を出す、THEOなどのロボアドバイザリーに運用を任せる、社会が良くなるために投資する、などなど、もっと多様になってくだろう、その全てをなめらかにしたいなーなんて思います。

さよならインターネット 序文

インターネットが「ハサミ」?

ある日、仕事の合間にお茶をしていたときのこと。インターンシップをしていた20歳の学生が、ぼくにこんなことを言いました。

「家入さんは『インターネットが大好き』とよく言うけれど、ぼくにはその意味がわからないんです。なんだか『ハサミが大好き』って言っているみたいで」

インターネットがハサミ? 一瞬、意味がわかりかねたこの言葉。どうやら彼は「インターネットなんて、ハサミのようにあたりまえに存在するもので、わざわざ賞賛する価値があるような対象ではない」と考え、そうたとえたようです。

しかしぼくにとってのインターネットとは、10代半ばの引きこもりのさなかに光を与えてくれた大きな存在。

そこから紆余曲折を経て、インターネットにかかわる会社を設立。20代で上場を果たした後も、やはりインターネットを通じてたくさんの人とつながり、飲食店やシェアハウスなどを手がけ、ネット選挙解禁後には、それをフル活用して都知事選を戦っています。ぼくはまさにインターネットとともに、その人生を進んできたといえるでしょう。

また、陳腐な言い方だけれども、インターネットはやはり無限の可能性を秘めた世界であり、ときには見たことのないようなものを生み出し、ときには中央集権的な構造にとらわれていた、いろいろなものを私たちの手に取り戻してくれる、無条件に賞賛される存在だったと思います。

それだけに、自分より若く、同じくその可能性に胸をときめかせているものとばかり思っていた彼の言葉が、衝撃以外の何ものでもありませんでした。しかし一方で、彼の言葉をあらためて考えてみると、「ぼくの好きなインターネット」というイメージも、はっきりと形にすることができなかった。そのことも、また大きな衝撃でした。
 

小さな世界の大きな価値

彼は、続けてこう言います。

「『Facebook』も『Twitter』もぼくには必要ない。『LINE』さえあればいい。つながりたい人とだけちゃんとつながっていれば、それ以上は必要ありませんから」

この言葉を聞いて、今度はとある思い出がぼくの頭をよぎりました。それは福岡で美大を目指しつつ、絵を描いたりして暮らしていた98年、20歳のときのこと。

描いた絵がだいぶたまったのを見て、ふと画廊を借りて絵を展示してみたくなりました。それは自分一人で描いていて、誰にも見せることのなかった作品が、第三者からはどう感じてもらえるのか、その反応を見たかったからです。もちろん絵が売れて少しでも収入になれば、という思いもあったので、画廊には結構な金額を支払って展示したのだけれども……。

結果はさんざん。このとき足を運んでくれた人は親しい友人以外、ほとんどおらず、絵もまったく売れませんでした。

そこで、その頃興味を持ち始めていたインターネットを通じ、それらの作品を自作のWebサイトに載せてみたところ、こちらでは驚くべき反応がありました。なんと福岡県内どころか、海外からも絵を賞賛してくれるコメントが届いたのです。

インターネットの向こうには想像できないくらいに大きな世界が広がっていて、つながり始めている。そして、その世界こそが、これからの時代、自己表現や発信の中心となるに違いない。これからやってくるかもしれない未来の片鱗を目の当たりにしたぼくは、強い興奮を覚えました。そして21世紀となった今、彼の言葉からこの経験を思い出したのです。

実際、そのあとには「一億総表現社会」という言葉が生まれ、それを象徴するようなブログブームが到来。続いて「mixi」や「Twitter」「Facebook」などのSNSがはやり、「Sixdegrees」、すなわち「6人を介せば世界中の誰とでもつながる」、そんなことがいわれるようになりました。

そこから、さらに進んで現在。世界はさらに大きく、そしてつながり続けました。しかしその結果として、目前の若者はむしろ小さな世界にこそ、大きな価値を見出していたのです。

特にぼくは承認欲求が強いせいかもしれませんが、かつてはブログで、今ではSNSを通じて、なるべく多くの人へと情報を発信したり、ときには悩み相談にまで乗ったりして、不特定多数の人たちから認められたいと思っていました。

しかし最近になって、そういった実際の姿が見えていない人たちとのつながりが、いったいどれだけの価値を持ちうるのか、どこかで疑問にも感じ始めていました。最近だと、つながりすぎたせいなのか、伝えたいと思ってもいないような人にまで、メッセージは容易に届いてしまい、想定をしていないような反発をもらうことも増えていました。それだけに彼の言葉に驚きを覚えつつ、でもどこかで納得して、受け止められたのです。
 

じゃあインターネットとぼくらはどこへ向かうんだろう

繰り返しますが、かつてのぼくにとってのインターネットは、いじめに遭い、引きこもったぼくのような人間にとって、極端なことを言えば「聖域」のような存在だった気がします。部屋から出なくとも同じ価値観を持つ人とつながり、存在を認めてもらえる場であって、ある意味で、目の前の社会以上にリアルな場所であって、存在でした。そして、多くの人がおそらくそうだったように、既存の価値観や構造がインターネットによって「ぱたぱた」と置き換えられるそのさまに、興奮を覚えた一人だったように思います。

ただし、今現在あらためて考えてみれば、インターネット上だろうと、現実の世界で大きな声を持つ人がやはり発信力を持ち、行きすぎたつながりは、お互いを見張っているような居心地の悪さや炎上をどこかしこで引き起こすようになりました。

さらに、常時接続や無線回線が当然となり、スマートフォンの登場、そして「Internet ofThings(モノのインターネット化)」、いわゆるIoTの流れもあり、インターネットにつながっているかどうかを、自覚しなくなってしまった。その結果として、インターネットそのものの姿はほとんど見えなくなったのかもしれない。そして見えなくなって、インターネットがその輪郭を失った今、上手くは言えないけれども、弱い人たちやマイノリティが守られる「聖域」としての期待からかけ離れた、逃げ場のない、むしろ息苦しい世界になりつつあると感じているのです。

もちろん、これから起こるであろう変化や、可能性を否定するつもりはまったくありません。しかし、インターネットと私たちにどんな未来がやってくるか、ということについては、大いに関心があります。

そして、浮かび上がってきた未来の姿によっては、インターネットとぼくらは、ここで一度距離を置く必要もあるのかもしれない、などと考えています。それどころか、実はぼくらはもう、別れを告げないといけないところまで、とっくに進んでいるのかもしれません。

だからこそ、インターネットと半生を歩んできたぼくが見てきた景色、もしくは新しく見えてきた景色をここで整理し、その姿を浮かび上がらせてみたいと思い、筆を執ることにした次第です。

あなたもこの本を読み進めてインターネットの未来、そしてそこへとつながる社会や私たち自身のこれからの姿を、ぼくと一緒に考えてみませんか?

避けられない未来

今後も加速度的に進化をしていくテクノロジーを避けることはできない、そんな避けられない未来に対して、僕たちはどう言った態度であるべきか、ってことが大事だと思うんですよね。

インターネットの本質とはあらゆることの民主化であり、誰もが声をあげられ、繋がり会え、支え合える社会を作るために、インターネットは存在していると僕は信じていて。その先に待つのは優しい世界であって欲しいなーなんて思うんです。

ペパボとか、BASEとか、CAMPFIREとか、リバ邸とか、様々なサービスをやってきましたが、手段や歩む道はそれぞれ違えど、目指すゴールはそんな優しい世界なんじゃないかなあ、と。

優しい世界とかぬるいこと言ってんじゃねえよ、なんて声も飛んできそうだけど。そんなことを、今日笠原さんとランチしながら思ったのです。インターネット大好き人間同士、実は近い価値観でやってきたんじゃないかなあ、と。

ゲリラ戦

「才能ある若い奴らが名を売ることにも金儲けにも興味を一切持たず淡々とゲリラ戦を仕掛けてくる。対価を得て生業としている所謂”プロ”層からするとそんな若者こそが脅威であると共に興味深くもある」あるファッションデザイナーの友人が言ってた言葉だけどこれはいろんな分野にも当てはまるのではないか。

「金にも名声にも全く興味がない」といった価値観が理解できない世代からすれば不気味でしようがないだろう。

プロがプロたり得る部分はもちろん残りつつも、対価を得ているからプロ・趣味だからアマ、なんて単純な境目は溶けてなくなっていくのだろう、従来の構図がプロを頂点とする山だったとするならば、今はアマチュアだらけの海の底に圧倒的な才能を持った人間が蠢いているといった感じなのかもしれない。

インターネットでみんながみんな何かしら表現や発信をする世界では「ただ消費するだけの人」がいなくなり、アマチュア表現者同士の「それ、いいっすね〜」みたいな互いの共感こそが、名声や金なんかよりも大事になっていくのかもね。

インターネットと親鸞

なんだかんだ僕はインターネットが大好きで、その好きなネットが普及したからこそ出来ることの本質と向き合っていたいんですよね。その本質とは、ありとあらゆることの”民主化”だと思うんです。一部の人や組織に独占されたものを、個人の手に奪いかえす。それこそが民主化であり革命なんじゃないかと。

民主化されてない分野、国内にはまだまだあります。そこをインターネットで切り崩したい。争わず、血も流れない、静かな革命。それを、僕は、優しい革命と呼びたい。

僕にとってのインターネットとは、農民にとっての竹やりであり、親鸞にとっての浄土真宗なんだよな。

資金集めの民主化

CAMPFIREファンクラブをリリースしました。

【誰でも無料で「ファンクラブ」が作れる!『CAMPFIREファンクラブ』スタート!】 PR Times
【誰でも無料で「ファンクラブ」が作れる!『CAMPFIREファンクラブ』スタート!】 CAMPFIRE Mag.
CAMPFIREが定額課金の「ファンクラブ」を開始へ、クラウドファンディングを超える事業モデルとは

インターネットが普及したからこそ出来るようになったこと、を僕はよく考えます。インターネットが普及したからこそ出来るようになったこと。それは、誰しもが小さくても声をあげられるようになったということです。

それは、インターネットによって、あらゆる構造や手続きが民主化されたということ。今まで一部の人たちや組織が独占していたり守られていたものが、一般の僕らでも気軽に使えたり参入できるようになったということです。

クラウドファンディングは資金集めを民主化した仕組みです。

誰でも声を上げることができる。資金や仲間を集めることができる。もちろんサクセスしないこともあります。

ですが、重要なのは「誰でも声をあげられる」ということなんです。

この資金集めを民主化した仕組みは素晴らしいと信じて、僕らはクラウドファンディングのプラットフォーマーとして5年間やってきました。

ただ、その中で課題も見えてきました。

僕らが素晴らしいと信じるものが普及するかどうかはまた別の問題です。

もっと気軽にみんなが使えるものにしていくために、そして僕らは次のステップに行くために、クラウドファンディングの枠を超えていかなければならない。

今回のファンクラブ機能もそのひとつです。

従来のクラウドファンディングが一過性で終わるものだとすれば、ファンクラブ機能は持続的に応援や支援を募り続けられるものです。

個人が個人を応援する仕組み、そして個人が小さくても声をあげられる仕組みとして僕らはクラウドファンディングの枠を超え、CAMPFIREを進化させていきます。

あるべき論

クラウドファンディングとはこうあるべき、起業とはこうあるべき、なんて「あるべき論」が、その手段の可能性を狭めるというのは、歴史を見ても明らかなんだよな。高尚なものに仕立てたいのかも知れないが、それでは一部の人しか恩恵を受けられないものになってしまう、それはインターネット的では無い。

良い結果になろうが悪い結果になろうが、すべての手続きを民主化するのがインターネットだと僕は信じているので、たとえそのクラウドファンディングのプロジェクトが「私利私欲に塗れた行為」なのだとしても、それは結局のところ支援は集まらないでしょう。もし集まるのだとすれば、そこになにかお互いの気持ちを満たす、バランスみたいなものがあるということだろう。

私利私欲に塗れているか否かを自分には判断できる、と思い込むこと自体が、おこがましく、かつ浅はかであると、僕は感じます。

あなたの書いているそのアフィリエイトブログも、「ウェブログとはこうあるべきだー!」なんて先人たちの理想と思惑を越えたところに存在しているのですよ。

こういう話の時にいつも思うのは法然と親鸞の偉大さであり、仏教とインターネットの歴史の相似性であるよ(語ると長くなる)

T君が童貞を捨てる日

僕は未だにMediumの使い方がわからないでいる。ちゃんとした記事を書かなきゃいけないのか?ちゃんとした記事を書けばハートみたいなのがもっと増えるのか?ちゃんとした記事ってなんだ?よくわからない。とりあえず日記を書いてみる。

今日は鶴ちゃんと甚田とT君とお茶をした。主にインターネットとスタートアップ界隈の話で盛り上がったのだが、T君は一人でずっとセックスの話をしていた。どうやらセックスがしたくてしたくてしようが無いらしい。彼は狂うほどセックスをするために、インターネット界で成功したいのだ。彼は童貞の若者なのであるが、その話をぼうっと聞き流しながら、「あぁ、かつての若者がロックスターに憧れた感じに似ているのかな」と感じた。スターのいる場所が変わってきているのかもしれない。

この業界も成熟してきたということなのか。あらゆる産業は成熟するとエリート化していくものだが、昨今のインターネット界隈やIVSなどを見ても高学歴・モテ化しているような気もして、引きこもりで学歴も無く非モテの僕からすると、少し寂しい感じでもある。僕にとってのインターネットとは、地を這い泥をすするスクールカーストの底辺であった僕らが、一発逆転を狙える、言わば一揆における農民のクワの様なものだったのだ。

インターネットとはそういうものだったのではないか。かつての若者がモテたくてギターをかき鳴らしたように、いまの若い子はプログラミングを習い、起業を夢見るのかもしれない。さあMacBookをクワとして、立ち上がれ若者たちよ!「意識高い」だの「起業は手段であってだな」だのおっさんどもは言うかもしれない。でもそのおっさんどもも、セックス狂いのロックスターを夢見て、かつてはギターを家でこっそり練習していたはずだ。馬鹿にした奴らを、世間を、見返したくて、ギターをかき鳴らしたはずなのだ。そう、僕らがコードを書き散らすように!

スタートアップという名の戦場で幾多の死者を乗り越え、T君が童貞を捨てる日もいつか来るのかもしれない。そしてその時、僕はこう声をかけるだろう、「おめでとう、そして、ようこそ、インターネットへ」いや、なんもうまくない。なんもうまくないぞこの話。綺麗に終えても無い。推敲すらしていない。そう、僕は未だにMediumの使い方がわからないのだ。

疲れないインターネット

誰とでも繋がれる、誰でも何でも言える、表現できる。そんな夢みたいな世界がやってきたけど、なんだかうーん、どうも違う感。この違和感はなんだろう。

タイムラインを覗けば、毎日の様に何かしら何処かしらで炎上が起きている。石を投げる人たち、投げ返す人たち。そこにゴールは無い、論破するかされるか、最終的にアカウントを消すか鍵をかけてハイ終わり。なんなんだろう、この気持ちの悪さ。そこに幸せはあるのか。

違いを違いとして認め合う、違いを違いとして距離をコントロールする、多様性とはこういうことなんだと思う。人と人は決してわかりあえない。わかりあえないことを前提に、自らがどう立ち振る舞うか、なのだ。ゾーニングがうまくいってないのか、どうも今のネットコミュニティはそこがグチャグチャな感じがするのだな。

手の届く範囲くらいの人たちと緩くつながり、全公開では無く範囲公開で、炎上もしづらく、誰が見てくれてるかわからないけど、確かに誰かは見てくれてる、そんなコミュニティがこれからは来そうな気がなんとなくしてる。炎上もバズも無い、小さなコミュニティ。サロンは近いような気もするけど、いまいちまだ僕の中ではしっくり来てない。

個々人の承認欲求、自己実現欲求はまだまだ高まってくんだと思うけど、同時に居心地の良さとのバランスみたいなものもネットコミュニティに求められてくんじゃないか、世界中に発信できる・誰とでも繋がれる、から、手の届く範囲の繋がり・発信、誰かに必要とされてる感。いいねや友人の数じゃない世界。

よくわからないけど、コミケのサークルとか、地下アイドルのファンコミュニティとか、いつもの仲間が集まる小さなバーとか、小さな劇団とか、そんな感じなのかも。大きな経済圏から、手の届く範囲の経済圏へ。疲れないインターネット。

キヌガサの時代きた。