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インターネットと親鸞

なんだかんだ僕はインターネットが大好きで、その好きなネットが普及したからこそ出来ることの本質と向き合っていたいんですよね。その本質とは、ありとあらゆることの”民主化”だと思うんです。一部の人や組織に独占されたものを、個人の手に奪いかえす。それこそが民主化であり革命なんじゃないかと。

民主化されてない分野、国内にはまだまだあります。そこをインターネットで切り崩したい。争わず、血も流れない、静かな革命。それを、僕は、優しい革命と呼びたい。

僕にとってのインターネットとは、農民にとっての竹やりであり、親鸞にとっての浄土真宗なんだよな。… READ MORE

あるべき論

クラウドファンディングとはこうあるべき、起業とはこうあるべき、なんて「あるべき論」が、その手段の可能性を狭めるというのは、歴史を見ても明らかなんだよな。高尚なものに仕立てたいのかも知れないが、それでは一部の人しか恩恵を受けられないものになってしまう、それはインターネット的では無い。

良い結果になろうが悪い結果になろうが、すべての手続きを民主化するのがインターネットだと僕は信じているので、たとえそのクラウドファンディングのプロジェクトが「私利私欲に塗れた行為」なのだとしても、それは結局のところ支援は集まらないでしょう。もし集まるのだとすれば、そこになにかお互いの気持ちを満たす、バランスみたいなものがあるということだろう。… READ MORE

現代における悪人正機考

僕の好きな親鸞の思想に「悪人正機」というものがある。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」という一文は有名だから知ってる人も多いかも。訳すと「善人だって救われるんだから、悪人ならいうにおよばない」と。ん?逆じゃないの?と思う人もいるかもしれない。僕も最初はそう思った。

自分を善人だと思い込んで、正しい行いをしているつもりになっている人ですら救われるのだから、自分を煩悩まみれのどうしようもない悪人であることを自覚して、仏に頼る人ならなおさらでしょ、という意味。だから、これはこれで正しい。悪人ほど救われる。超やばい。かっこいい笑。

Livertyに集まってきている「ダメな子」も、ここで言う「悪人」に近いものがあるかもしれない。どうしようもない人間であることを自覚して、駆け込んできた子たち。そんな「ダメな子」たちが何かを為すからそこにストーリーが生まれ、共感を呼ぶ。器用に生きていける子には僕は興味が無い。… READ MORE