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マネージメントしないマネージメント

僕らのやっているLiverty、そして今日本中に増えつつある”現代の駆け込み寺”リバ邸。よく「どうやって管理してるんですか?」と聞かれるが、正直全く何も管理していない。プロジェクトもシェアハウスも、”やりたい”という子がいる限り、基本的にその子に任せている。マネージメントをしない、というマネージメント笑。

全てを把握してマネージメントしようとするから、コストが莫大になってしまう。そもそも感情の生き物である人間を完全に管理・コントロールしようとするのが間違いで、”人を管理することなんて出来ない”という前提の元、その個々の人間とどうつきあっていくのか、を考えなきゃいけない。… READ MORE

最先端の国、日本

海外は興味無いんですか?ビジネスやらないんですか?と良く聞かれるが。正直全く興味ない。少子高齢化が今後全世界を覆いつくすが、その先端を行ってるのが日本の地方。海外に行くくらいだったら、地方でビジネスやるよ。それが世界のロールモデルになる。

日本地方の高齢化率はやばい。世界の先端を行ってる。半分近くが65歳以上なんだよ。今後の世界を考えたら海外で何かをやるより、日本の若者とジジババを接続する方が先だろ、と思う。都心のジジババの孤独死はよく問題になるが、地方でもどんどん増えてるんだよ。縦の繋がり(血)も横の繋がり(共同体)どちらも断絶し始めている。結果、地方の一軒家の高齢者の孤独死が増えてる。… READ MORE

渋家

昨日ラジオに出てくれた齋藤桂太さんが率いる渋家。渋家はシェアハウスの枠を飛び越えて、今後のアートの文脈の中で一端を担う存在になっていくのだろうな。まあ、もはやアートも軽やかに飛び越えてる感はあるけど笑。

「ありとあらゆる物事の境界線が曖昧になっていく」と僕はよく言ってるけど、例えば渋家は仕事も遊びも、そして生活ですら境界があいまいになっている。遊び場であり仕事場であり、クラブであり舞台でもあり、そして拡張された家族の居間でもある。面白い。

渋家には30人ほど(!)住んでいるらしいが、彼らは居間で飯を食いながら探偵ナイトスクープを見てゲラゲラ笑ってたりするらしい。これはもはや家族以外の何者でも無いだろう。実家よりくつろげる居場所がそこにある。血の繋がりを越えて擬似家族、拡張家族を作る動きは渋家でもリバ邸でも感じる。… READ MORE

僕は血の繋がりにそれ程の意味を感じられずにいる。極論言うといくら血が繋がろうとそこにいるのは僕にとっても相手にとっても他人である。どこまで行っても他人である以上「わたしはあなたを一方的に愛する、それをあなたがどう思うかは知らないが」この態度しか無い。それ以上でも以下でも無い。

親だから、爺ちゃんだから、面倒を見なきゃいけない。最後まで看取らなきゃいけない。延命させなきゃいけない。その思い込みが自身を不自由にする。年寄りは若い人より先に死ぬ、その単純な前提に立つだけでいい。その上で自分がどう振る舞うか。そこで自分に責任を感じる必要なんて無い。

人間は血の繋がりに意味を見出そうとする。だけど所詮他人、わかりあえる訳なんて無い。血が繋がってるからわかりあえる、そんなの幻想だよ。わかりあえると期待するから、わかりあえない時に絶望する。わかりあえないのを前提に、どう一方的に愛するか。それしか無い。… READ MORE

曖昧になる世界

不安定な世の中、ソーシャルの浸透、グローバル化などであらゆる境界線が曖昧になる中で、自分を中心とした小さなコミュニティを作ろうとする動きが増える気がする。シェアハウスや私塾といったものもきっとそうだろう。会社や学校、国といったものが自分を守ってくれないことを知ってしまった。

頼りになると信じてたものが、あっけなく不景気や地震で壊れてしまうことを知ってしまった。いじめから学校が守ってくれないことを知ってしまった。鬱や過労死からも企業は守ってくれないよ。逃げ遅れる前にダッシュで逃げる。命を失うくらいなら立ち向かわなくていい。逃げた先に居場所を作ればいい。

最近感じるのはLivertyは自分の居場所を作るためのプラットフォーム型組織になりつつあるということ。自分の居場所を作るための場所。ある子は勝手に仲間を集めてウェブサービスを始めるし、ある子はシェアハウスを始める。自分なりの場所を模索しながらLiverty内で作りはじめている。… READ MORE