絶望こそが美しい

人はすぐに何かを求めてしまう。金が欲しい、時間が欲しい、見返りが欲しい、自分だけを見ていて欲しい、良い人だと思われたい、助けて欲しい、恩返しして欲しい、幸せになりたい。求めるから、それが満たされない時に、人に絶望してしまう。僕はもう、人に何かを求めることはやめたよ。

人間なんて所詮、感情や打算で自分勝手に動く汚い存在だ。だからと言って人を信じることを諦めるのでは無く、その前提に立ち、見返りなんて求めずに一方的に人を信じる。そもそも人を信じるとか救うなんて、一方的で独善的でワガママな行為なんだ。見返りを求めなければ、絶望することも無い。

心のどこかで「信じているから報われるはずだ、助けてあげたんだから恩返ししてくれるはずだ」と見返りを期待してしまうから、それが帰ってこない時に勝手にがっかりしてしまう。人を信じたり助けたいと思う行為は「金を貸したらあげたと思え」という言葉とも似ている。つまり一方的に与えればいいんだ。

希望を見るから絶望してしまう。消費を産むためにこの世は見せかけの夢や希望で満ち満ちている。人や宗教や会社やテレビや本が見せる夢や希望を信じるのは勝手だが、裏切られることを前提に常に自分の頭で考えよう。求めるから裏切られる。求めなければ裏切られる事もない。絶望や諦めの境地に常に立つ。

「生きたい」「死にたい」「幸せになりたい」と願うことすら、求める行為。求めることは、苦しみを抱えるということ。求めなければ、苦しみを抱えることなんて無いのにね。それでも人は色々と求めてしまう。まあそれが人間臭さでもあるんだけどね。まあ、諦めの境地です笑。

ありとあらゆる絶望が詰まったパンドラの箱の、最後に残った希望こそがら本当の絶望かもね。希望を持つから、絶望してしまう。希望や夢を見せるとは、とても残酷な行為だと僕は思う。だから僕自身は夢も希望も持っていない。夢はなんですか?なんて良く聞かれるが「ありません」と答えるよ。

若いなら夢を持ちなさい、男なら大きな夢を持て、希望を持て未来は明るいぞ、なーんて大人は口を揃えて言うけど、それが強迫観念になってしまってるんじゃないかなあ。夢が無きゃ人間じゃない、なんてね、ただの思い込み。自分の果たせなかった夢を下の世代に押し付ける行為は、とても残酷だ。

絶望こそが美しい。