台所の掃除から

昨年の人生相談イベントでゲストの哲学者・苫野さんが「何をやればいいのかわからない、という子にはまず台所の掃除を勧める」と言っていたのが面白かった。この世の中には目に見えない網が無数に張り巡らされていて、何がフックになって引っかかるかわからない。掃除から何かが繋がり、やるべきことが見つかるかも知れない。

「何かをしたいけど何をしていいのかわからない」なんて子は多い。そんな子に僕がよくアドバイスする、「身近な半径数メートルにいる人の喜ぶことをやってみな、そこから次に繋がることがあるかもしれない。最悪何にもならなくても、その人の笑顔が見れるだけハッピーじゃん」と言うものにも似ている。

そんな網の目が見えずに、そして自分のフックが何かもわからずにもどかしい思いを抱えてる子には、そんなアドバイスや機会を与えることしか僕には出来ない。その機会が果たしてその子に合っているのか、その子がその機会をものに出来るかはまた別にして。見返りを求めずに機会を与える。それしか無い。

引きこもりの子を抱える親御さんからの相談にも同じアドバイスをする。「あなたにはその子に機会を与えることしか出来ないんですよ」と。例え親でも無理に外に連れ出すことなんて無理。例えば本や音楽や映画でも何でも良い、その子のフックになるかもしれない機会を与えることしか出来ないと思う。

結局の所、目に見えない世の中に無数にある網の目に、何のフックがどう引っかかるかなんて、自分自身が動いてみないとわからない。それを苫野さんは「まずは台所の掃除を」と言い、僕は「まずは身近な誰かの喜ぶことを」と言う。フックが引っかかった後は、そこから糸を手繰ってやるべきことを見つける。

堀江さんの新刊「ゼロ 」の副題「なにもない自分に小さなイチを足していく」も同じことだろう。焦る人は掛け算をしようとするが、自分がゼロのうちは何を掛けてもゼロ。あの堀江さんでも、小さなイチを足し続けて、いまここにいるんだよね。台所を掃除する中で、小さなイチが見つかるかもしれない。

僕らは真っ暗な井戸の底にいて、たまたま運良く一回のジャンプで蜘蛛の糸を掴んで外に出られる人もいれば、一生飛び続けても糸を掴めない人もいる。それはもう理不尽としか言いようが無いけど、一つ言えるのは糸を掴もうとするなら暗闇の中でも手を伸ばし続けるしか無いんだよね。焦らなくてもいいけどね。